last updated: 2004.3.1
この原稿は真夏の暑い日にクーラーにあたりながら書いています。もうスキー・フォー・ライト ジャパン(以下SFLJと書きます)から帰ってきてから半年以上が過ぎてしまいました。そろそろ次回のSFLJの予定をチェックしておこうかと思っています。
さて、私は、SFLJには5回ほど参加させていただいています。ここでは、SFLJの魅力について書いてみます。きっと5回も参加した理由が分かるのではないかと思います。
2002年1月4日朝7時30分、"いつもの" ように私は駒込駅の改札に向かいました。もう何度か参加していると、SFLJに行かないと新年が明けた気がしないくらいになってきました。「去年来ていた人は今年も来るかなあ、今年は新しい人がくるかなあ」などと考えつつ集合場所へ行きました。
私はSFLJの魅力の一つは、クロスカントリースキーを通して、参加者同士が交流できることだと思います。クロスカントリースキーを通してと言っても、来る人みんなシャッシャカ滑る人ばかりではありません。私のようなスポーツ音痴でも参加できています。
SFLJでは、スキーをする際は、視覚障害の人と晴眼者がパートナーを組み、三キロ程度のコースを走ります。私の場合は、パートナーの人と雑談をしたりウサギの足跡を触ったり、途中で休憩しながら、のんびりとコースを回ります。子供が大学生というお母さん、大学の後輩、ミュージシャンの人など、今まで多方面で頑張っている人と一緒にパートナーを組ませていただきました。自分の知らない世界の話や経験談は新鮮で、いつも心の栄養剤となってくれます。
さて、SFLJでは昼間はスキーを楽しみますが、夜はゲームや宴会があります。実は、この夜のイベントも重要です。一つの部屋に多い時だと20人近く集まり、ビール片手におしゃべりをします。ここで、パートナー以外の人たちと交流することができます。宴会は夜遅くまで続き、翌日スキーができるのかと心配になってしまうくらいです。でも、不思議なことにちゃんと次の日も滑れるんです。
このように、SFLJでは、スキーを通して参加した人たち同士の新しい輪が生まれています。私は、SFLJの魅力は、障害の有無に関係なく、スキーという一つのスポーツを通じて、集まってきた人同士が相互理解を深めることができることではないかと思います。私の文章では充分伝えきれませんが、まだ参加したことがない人は是非SFLJに行きましょう。
私は九州生まれの九州育ち。昨年の春に関東に出てくるまで、九州以外の場所に三日以上滞在したことすらありませんでした。そんな私にとって雪は、ほとんど縁のないものでした。もちろん九州でも1年に1・2度は雪が舞うこともありますが、たくさん積もった雪の上を歩く感触など全く味わったこともありませんでしたし、想像すらできませんでした。
このように、これまでスキーはおろか、雪にさえ縁のなかった私は、「せっかく東日本にいるんだから、雪があるところにいってみたい」というような安易な動機で今回のスキー・フォー・ライト ジャパンへの参加を申し込みました。しかし、申し込みはしたものの、スキーウェアーをはじめスキーに必要な防寒具を何一つ持っていなかった私は、上から下まで東北出身の友人から貸してもらって、とりあえず準備万端?参加しました。しかし、いざこれから出発という段階になっても、いまいちどのような三日間になるのかイメージできず、正直期待よりも不安をより多く感じながらの出発となりました。
ところが、裏磐梯での三日間は、予想していたよりも何倍も楽しいものでした。かたくふみかためられた雪の上を歩く感触、高く積もった新雪に埋もれる感触、生まれて初めてのクロスカントリースキー、勢いあまってつっこんでいった雪の壁、全てがとても新鮮な経験であり、本当に楽しい時間を過ごさせていただきました。ガイドの野畑さんには、いろいろとご迷惑をおかけしてしまったかも知れませんが、とても自然にガイドしていただき、本当に気楽に楽しむことができました。雪の上以外でも、冷えた体を温めてくれた温泉やさまざまな人たちとの出会いなど、数え上げれば切りがないほどの楽しい経験をさせていただいたあっという間の三日間でした。
来年もぜひ参加したい!と言いたいところですが、日程的に難しそうなので、ぜひぜひ再来年・あるいはその後また参加したいと思います。
最後に、このスキー・フォー・ライト ジャパンを毎年企画運営されているスタッフの方々に心から感謝いたします。一つのプログラムを実施するだけではなく、それを継続していくということは、本当に大変なことと思います。スタッフの方々のご尽力を考えると参加者の一人としてはただただ感謝するしかありません。本当にありがとうございました。
大学でのスポーツの授業でお世話になった佐藤先生にお誘いいただいて、SFL-Jには今年初めて参加しました。スキーヤー・ガイド含め、様々なバックグラウンドを持った方々と共に4日間(3日間)生活できた経験は、学生の私にとって小さいものではありませんでした。
北陸・福井出身の私は、開催地であった福島県を訪れるのは初めてでしたが、初日はとても大変でした。1月3日からだったので正月帰省中だった故郷福井県から福島県までなんと約20時間かかってしまいました。中部地方の大雪で夜行バスが立ち往生してしまったのです。雪国から雪国への冬の移動は本当に大変です。夕方、裏磐梯の国民休暇村に着いた時は何かはるか遠い異国へ来たかのような感覚に陥ってしまいました。
"クロスカントリースキーのガイド" と聞いて、当初は「〜してあげよう・楽しんでもらおう」という意識一辺倒でした。ところが実際、スキーや寝泊りを共にしているうちにそれは変わってきました。「〜してあげる、〜してもらう」という一方通行の関係ではなくて、私のほうがスキーヤーの方々から学んだ事のほうが多かったように思います。自分の社会的立場をしっかり見極めつつ道を切り開いていこうとする姿は、私の最も学ぶべき事です。私は「障害者」という言葉が好きではありません。目が見えなかったり、耳が聞こえなかったりと不自由な体の箇所を持っていたとしても、なんら臆することなどないのです。なぜならそれらは、人間の体として髪の毛が長い短いとか身長が高い低いというのと同じだからです。この何にでも積極的な点はスキーヤーの皆さん全員に見て取れました。
私は参加者の中では最年少の部類でしたが、周りの方々もまだまだケツの青い私にとても親切に接していただいたこともよき思い出として残っています。滑り終わってから皆さんが集まってワイワイ飲むことも楽しかったです。ぜひ、次回またこの経験をしたいです。
この冬は、スキーに行くチャンスはないかな、と思っていたとき、『点字毎日』紙上で「第7回 スキー・フォー・ライト ジャパン参加者募集」の案内を見つけた。
私は神奈川県内の視覚障害者を中心に構成されているスキークラブに所属し、毎年1度はスキーツアーに参加することにしている。だが今年は、どうも予定が合わず、スキーを履けそうにないと、あきらめかけていたので、「参加者募集」の記事に飛びついた。
とにかくスキーをしたいという気持ちだけで、スキー・フォー・ライトが何かも知らずに参加を決めた私は、実際に三日間の体験を通して、この活動の趣旨を知ることになった。最初は全く勝手がわからなかったが、スキーを一つの手段として、視覚障害者と健常者の交流の場を作り、相互の理解促進を目指すという活動の方向性が、だんだん見えてきたように思う。
私は人生の大半を視覚障害者として過ごしてきたが、日常的に家族以外の同じ障害を持つ人と接する機会はあまりない。そのためもあってか、スキー・フォー・ライト ジャパンのような、視覚障害者中心の集団運営がとても新鮮に感じられる。
私の日常生活は、健常者に囲まれていて、緊張したり、主張を抑えてしまったりすることが多い。時には「視覚障害者のことを知らないから、会った時、どうすればいいか教えてほしい」と硬く身構えて尋ねる人たちに、基本的な視覚障害者との接し方を説明することがある。それがきっかけで、親しくなる人もいるし、なかなか打ち解けられない人もいる。一方には、「視覚障害者のことは、わからないから」と、私との関わりを持ちたがらない人も少なくない。こういう人たちとどう接すればよいか、私自身も迷う。
楽しみを共有することによって、視覚障害者と健常者がお互いの距離を縮め、肩のこらない関係を築いていこうという考えは、私にはとても魅力的なものに思える。スキー・フォー・ライトのような大きな企画を個人レベルで実行することは、難しい。けれども私の生活の中で、楽しみながら人の輪を広げていけるような、小さな活動をしていけたらと思う。
最後に、今回、50余人という大所帯をとりまとめ、プログラムを円滑に運営してくださったスタッフの皆様、そのプログラムを共に楽しむことができた参加者の皆様に感謝申し上げたい。
森の中でさわやかな風が木々を揺らし、緑の風が家の中に静かに吹き込みます。熊谷では今夏最高気温38度を記録したとか。そんな時にクーラーなんぞというヒートアイランド製造機と無縁な生活を、満喫していて良いのかと自問すると同時に、都会の暑さの中で必死にもがいている人たちに対して、ちょっとサディスティックな快感を味わっている自分もまた否定できません。
長野県野尻湖畔の山中に家を建ててから、めりはりのある春夏秋冬を肌で感じながら森の変化を意識し始めて約10年が経過しました。日本の森には昔は炭焼きおじさんが住んでいて、老木を必要なだけ伐採し炭を作り、春には木々の下刈りをして風の通りを良くしたりしてくれていたのです。私が子供の頃にすでに父が小さな山小屋をここに持っていて、休みのたびに連れてこられていました。家から遠くに炭焼きさんが住んでいる小屋があり、そのおじさんが私達姉弟に、山で食べられる、野苺、桑の実、その他山のこといろいろ教えてくれました。その炭焼きさんは、どこかの刑務所から脱走し山に隠れて、炭を焼いて生計を立てていたことを後になって村の人から聞きました。私達親子、母、弟三人の命を後に救ってくれることになったのもこの炭焼きさんだったですがその話は又にします。その頃から私は良い人、悪い人という定義に疑問をもつようになったのだと思います。話を元に戻しますが、雑木が我々の生活の必需品ではなくなり、炭焼きさんが日本の山からいなくなった頃から、人の生活とともに育ち発展してきた里山(さとやま)が荒廃しはじめたのです。
今日本中に点在する里山で危機的状態が観察されていて、崩壊しかけている里山もたくさんあると聞きます。野尻湖の山もその例外ではありません。特に、国立公園の一部と指定されてから、木々の伐採、整理には許可が必要となり、山に住み山の懐の深さを体験したことの無い営林所の人たちの管理下に置かれました。森の研究、勉強をしている人たちの意見も聞かずに、木の伐採を禁じるだけで他に何の手も打たなかった。結果として老木は根を張りすぎ、若い木が育つのを妨げ、日照、風通しにも影響が及び、森はうっそうと茂り、つたは絡み放題で手がつけられないような状態になっています。
毎年私達が参加している、スキー・フォー・ライト ジャパン主催クロスカントリースキー大会が開催される裏磐梯も、森の恩恵を蒙りながら、人々が協力し育て、発展させてきている里山の中にあります。木々が雪の花を積んで陽光に輝く姿、雪の中で春をじっと待つ森に生息するあらゆる生き物、そんな生物の息吹を感じながら、クロスカントリーに励み汗をかく喜び、それらは全て里山からの贈り物なのでしょう。裏磐梯の里山の存続も危機的状態にあるのかどうか、そしてあと何年くらいスキー・フォー・ライト ジャパンのイベントが当地で続けられるのでしょうか??
過去7回連続して毎年一月初旬に行われている、涙なしでは語れないくらいおかしく、楽しいクロスカントリースキー大会の悲喜こもごもについては皆様が大いに語ってくださっています。こんな大会が続けられるのも美しい森のおかげでしょう。私はこの会の存続のためにも、各地域からの参加者の皆様に里山について、知っていること、気づかれたことをお知らせいただけたら嬉しいのです。里山研究にご協力いただきたく、こんな関係のない原稿になってしまったことをお許しください。
障害を持つ持たないに拘らず、老いても若くても、男でも女でも、安全に健康に、文化的創造的な差別されない生活ができる事は、誰もが持つ望みです。
人々のこの願いがどれくらい満たされているかで、その国、社会の成熟度も測られる。日本でもこの10年ほどで、利潤や能率を追求した投資とは異なる、福祉を目的とした社会基盤の整備へいろいろな予算な向けられるようになったと思っている。公共の建物には必ず階段の横に車椅子用の斜面が付けられるようになった。これからは、さらに障害者へ接する時の人々の意識の在り方が問われることになるだろう。
僕は福祉の専門家ではない。3年ほど前より福島県盲人マラソン協会の小針さんとの付き合いで長距離を走るようになり、また同時に、機会があれば伴走で手伝いをする様になった。積極的にどこかに出かけて行って障害者を助けると言うような気持ちはあまりない。自分が走っているときにそこに助けの必要な方がいれば、快く助けますよという姿勢で取り組んでいる。
その小針さんよりSFLJの事を聞いた。視覚障害者の人達を伴走しながらクロスカントリースキーをして、酒を飲んで温泉に入るようである。クロカンスキー、温泉、お酒という言葉に惹かれて参加した。結果、いい体験ができた。
障害者への接し方については人それぞれに様々な考えがあるでしょう。いろいろな立場の人々の議論によって、その理想についてこれからもっとはっきりすると期待される。あまり関わりたくないというのは論外としても、その傾倒の度合いについては健常者も障害者の意見をよく聞いて「程よい介助」についての理解を深めるべきだと思う。しかし、障害がそのまま介助に結びつくような、障害者を弱者と捕えて即保護といった考えは、この先どのような議論があっても僕の頭には起きないだろう。障害があっても自立した生活ができる社会というのが第一で、その自立のために必要な最低限の介助であれば快くしますよ、と僕は自分の立場を決めている。
SFLJで参加している視覚障害者の方々に接して、この点に関して非常に安心した気持ちになった。視覚障害者の方々の、我々健常者は忘れかけている、言葉に対する熱意と使い方に、自立した個人の存在を感じることができたからだ。自分の気持ちを相手に伝える為に言葉の持つ力を最大限に引き出した喋り口に、僕は何度となく圧倒された。この能力は人と人との意志の疎通が重要になる職場では特に大きな役割を果たすのだろうなぁと思いながら、流れるように飛び出してくる会話や司会に耳を傾けていた。ラジオのパーソナリティか小説家になったら凄いんじゃないかなと思いながら、「百聞は一見に如かず」に慣らされた脳みそを洗濯してもらっている気持ちになった。時に魅惑的ですらある言葉の刺激に、食事や伴走での介助の負担を全く感じることがなかった。
最後に、用意周到に進行を司って下さった青松さんをはじめとするスタッフの方々に、期間中楽しく過ごせた事を感謝します。