last updated: 2004.3.1
初めて参加した「スキー・フォー・ライト ジャパン」から早5ヵ月。「参加者のみんなはどうしているかな? 元気でがんぱってるんだろうな…。」 ときどきそんなことを思い起こすと、「よし!」と体と気持ちにむちが入る私です。
「スキー・フォー・ライト ジャパン」を知ったのは、確か3年ほど前、雑誌の記事だったと記憶しています。「雪上にラインを引いたコースを視覚障害者と晴眼者のガイドがペアを組んで歩く競技で、長短幾種類かのコースが作られていて、無理なく安全にスキーを楽しむことが出来る。」というような内容だったと思います。ちょうどその頃娘の未希は5歳で、「そろそろ雪の体験をさせてあげてみたい。」等とおぼろげに思い始めていました。また、視力の弱い私が子ども連れで気兼ねなく安全に参加できるツアー旅行はないものだろうかとも考え始めていました。そういった意味で、まさにこの企画は、私たち親子にとって願ってもない理想的な企画であったと言えます。そして昨年、参加経験のある友人親子に誘われ、それにも背中を押される形で参加申し込みをしました。
ところが、実際ツアーに参加してみると、それは私の予想を超える、別な意味でとても意義深い企画であることを知りました。スキーヤーもガイドも多様な職種や経歴の人たちが集まり、真に交流を望み楽しんでいるのでした。スキーヤーがスキーを楽しみ、ガイドはそれをサポートするというのではなく、学校の先生・お医者さん・三療師・学生・主婦・会社員…、ときには立場を離れ、またときには逆にそれぞれの立場で協力し合いあるいは学び合う様子は、とても新鮮な感動とすがすがしさを感じさせるものでした。折しも、このツアーの2週間後にCIL(自立生活センター)への就職をひかえていた私には、得難い経験の場であったと同時に、とても大きな刺激を受ける場となりました。障害当事者が真に自覚と責任と目的を持って物事を計画したときにこそ、対等な立場でのサポートや惜しみない協力が得られるのだと理解させてもらった3日間だったと思います。
さて、元々この企画に参加するきっかけを作った我が娘はと言えば、ツアーから帰った当日から始まって何度となく私に、「おかあさん、第6回の『スキー・フオー・ライト ジャパン』には絶対つれてってよね!」とねだり続けています。そして私がもらった申告タイムレースでの3位の表彰状を、学校の友達や親類、近所の電気屋さんのおじさんにまで、お客様にご披露してくれています。あくまでも申告タイムレースであって、決して速く滑ったわけではないから、かなり恥ずかしいのですが、我が事のように喜んでくれた彼女の気持ちは、うれしく、いじらしく、そして素直にこの上なく「かわいいやつ」だと思います。彼女の大切な新しいお友達のえみちゃんに是非来年も会わせてあげたい、そう願って私も次回を楽しみにしています。
最後に、「スキー・フォー・ライト ジャパン」のスタッフのみなさま、毎年年間を通しての準備・実行・残務ごくろうさまです、どうもありがとう。それから、私たち未熟な親子をガイドしてくださった小野先生、ありがとうございました。そして、「第5回 スキー・フォー・ライト ジャパン」の参加者のみなさまへ、「是非また来年のお正月に元気でお会いしましょう!」。
当初参加の第1回目からの事をと言うプレジデントから御注文でしたので、既に何回もお話をしている大久保彦左衛門と同じく皆さんが聞き飽きた話から始めます。私は障害者の事も、地元の事も何一つ知らずに育って参りました。
脳神経外科を専攻してからは、脳下垂体やその周辺の腫瘍の患者さんの一部に失明者や成長障害の子供達を、外傷や脳内出血など疾病による患者さん達の中にも半身不全麻痺などの障害者を世に送り出して参りました。本当の事は何も分かっていないのに、毎年送られてくる年賀状など(脳腫瘍や外傷の患者さんの中にはお付き合いが30年以上の方もおられます)で自己満足しておりました。原宿ロータリークラブ会員であった頃には、東京都障害者水泳大会のお手伝いを致しましたが中身は通り一遍でした。
また師範の付属小・中学校で育ち、祭礼の寄付もせず従って地元の祭りの神輿を担いだこともなく、紙芝居も駄菓子などを買わないので一番後ろで盗み見をして育ちました。
東京を11年離れましたが、17年前に所沢から渋谷に戻りました。娘も私立の幼稚園〜大学に通い、またも地元の小・中学校PTAの経験をせず、日本体育協会の国体選手をサポートする委員会や、関東ラグビーフットボール協会の各種委員、日本医師ジョギング連盟なども地元とは関係なく過ごして参りました。たまたま渋谷区の広報紙で区民歩け歩け大会の実行委員の公募があり、それに応募したのがきっかけで、行政の諸行事を手伝う渋谷区スポーツリーダー会にも入会し(元副代表)、そのご縁で渋谷区体育指導員にも推挙されて現在に至ってます。そんなおり朝日新聞に「視覚障害者のクロスカントリースキーが裏磐梯で開催されるが、その伴走者としてボランティアではなく一緒に遊べる人を募集している」と言う記事が掲載されました。今までの行政指導のものは区民知的障害者水泳教室、歩け歩け大会、区障害者団体連合運動会などは全てボランティアでしたので、びっくりしてすぐ応募しましたら試験もなく採用されました。
猪苗代駅で降りてバスに乗る時から、今回まで共に5回参加している金本さんと御一緒になりました。初回はスタッフのみが国民宿舎で、他はペンションに分宿で結構楽しい夜でした。最初に江村先生から視覚障害者との接し方の初歩講習があり多少緊張して聴講しました。しかし会の進行とともに青松・丸田と言う凄い若者二人が、その人脈を最大限に生かして会を創始し運営している事を伺った時は二度びっくりしました。アイマスクをかけての体験実習も、今まで屋内でもしてないのが急に屋外でしたので不安でした。特に下りや小川の脇はひやっとしました。遊ぶ事だけが大好き人間の私(飲む事も駄弁る事も決して嫌いではない)としては、ボランティア気分はかなぐり捨てて、皆と溶け込めば良いのだと言うことの理解は容易に出来ました。部屋割り相手にもスキーヤーにも恵まれて、最終日には2位表彰状までも頂いて気を良くして帰京致しました。2回目からの部屋割り相手にもスキーヤーにも恵まれてと考えているのは私のみで、本当は私の部屋や私のガイドに当たった人達は、内心しまった変えて欲しいと考えておられるのかもしれません。特にエスコートのミスで駅構内の鉄柱に青木君の頭を激突させさるミスを始め、大小様々なミスをやらかしたり、酔った勢いでくだらない話をしたりで、2回目からはもうお座敷がかからないのではないかと思いながら恐る恐る応募しておりますが、いまの所は寛大な皆さんのお陰で無事却下されず参加させて頂き、今回はまたも3位表彰状と素敵な文面の感謝状までも頂いて光栄の至りです。
視覚、聴覚・会話などの中で何を失ったら一番辛いかと考えた時、以前は視覚がなくなったらと言うのが一番不安でした。しかしスキーヤーの中には、先天性の方だけでなく後天的失明の方もおられ、しかも病的失明のみでなく外傷による突然失明の方もおられるのを知りました。皆さん陽気で障害者かと疑う(今までの行政での会で付き合った方と異なるので)ばかりで私自身も自信が沸いて参りました。
我が仲間の福留さんが日本代表として参加されるシドニーでのパラリンピックで好成績を挙げられることを祈念すると共に、帰国された時に開催されるであろう「皆で祝杯をあげる会」に是非参加させて頂きたいと願っております。6回にわたって参加して参りました5月の青山学院中等部裏磐梯キャンプは今年から参加致しませんが、来年正月のSFL-Jには是非また参加させて頂きたいと思っております。又老人性痴呆症が一段と酷くならないうちにノルウェーにも参加してみたいとは思っております。