第3回 スキー・フォー・ライト ジャパン

参加者の感想


last modified: 2004.3.1
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第3回 SFL-J に参加して

河合康明 (ガイド・大学教員)

私と障害者スポーツの関わりは、福留史朗さん(視覚障害者:鳥取県在住)との出会いから始まりました。2年前ランニングを始めた私は、近隣のマラソンレースに出場した折に、初めて福留さんにお会いしました。その後もレースやわが家のすぐ傍にある陸上競技場などで顔を合わせているうちに、ランニング仲間兼飲み仲間になっていました。昨年の夏、福留さんから電話がかかってきて、「今度、鳥取県身障者スキー協会を設立するので協力してほしい」という相談を受けました。私が鳥取大学医学部スキー部の顧問をしているので、ボランテイアを組織する手伝いをしてほしいという依頼でした。そこで、医学部と医療短大のスキー部学生にこの話をしたところ、進んで協力させて頂きたいという申し出を受け、早速準備に取りかかりました。順調に設立総会が開かれ、第1回のスキー講習会を1998年1月末に大山で開催することが決まりました。ところがボランテイア活動や障害者スポーツとの関わりといった経験の無い者の集団ですので、分からないことばかりの暗中模索状態で不安でした。そんな折に、福留さんから SFL-J のことを聞いて興味をひかれました。ボランテイアではなく、「楽しみながらお互いを理解し合うことを目的」とするというスローガンに共感を覚え、是非参加したいと思いました。私より以前からボランテイア活動に興味を持っていた家内に話したところ、彼女もまた参加を希望しましたので、夫婦そろって申込みをした次第です。

先日、青松さんから SFL-J に参加した感想文の依頼を受け、気軽に引き受けてしまい、しまったと後悔しています。年齢のせいでしょうか、3ヵ月半過ぎた今では率直な感想は薄れてしまい、一部の出来事が強調された形で記憶に焼き付いているいうのが正直なところです。そこで、感想文というにはふさわしくないかもしれませんが、記憶の一部を辿ってみました。スローガンの前半「楽しみながら」に関しては、申し分ありませんでした。多くの人々に出会えたことも、初挑戦のガイド役も、クロスカントリースキー自体も、そして何より林君とのペアリングは楽しい思い出をたくさん残してくれました。林君とのペアは、スキーのペースが初心者の私にはやや速く、あまりおしゃべりしている余裕はありませんでしたが、静かな雰囲気が私は好きで楽しんでおりました。米子に戻った後、「お世話になりました」という e-mail を林君から貰い、感激しました。お世話になってお礼を言いたいのはこちらの方なのに。さて、スローガン後半の「お互いを理解する」は、どうであったかいろいろ考えるところがありました。この「お互い」というのは、ペア同士がお互いをという意味にも取れますし、視覚障害者と晴眼者がお互いをであったり、障害者とか晴眼者の区別なく参加者同士がお互いをと拡大解釈することもできるように思います。参加人数と日程からいって、参加者全員の方々とゆっくりお話しするには、時間が足りなかったと思いますが、いろいろな面で理解するきっかけを得たような気がします。4日間という短い期間でしたが日常生活をともにすることで、気付いたり感じたりすることがいくつかありました。それらは表面的なことでしかないかもしれませんが、理解を深める第一歩として大切な体験でした。そもそも「お互いを理解する」のは、視覚障害者同士あるいは晴眼者同士であってもそう簡単ではないでしょう。それでも今回のような経験を積み重ねていけば、より深い理解が得られるのではないかと思います。

蛇足ではありますが、前述の鳥取県障害者スキー講習会は、福留さんの努力の甲斐あって大成功でした。ボランテイア活動も大過なく行うことができホッとしました。安全面の配慮さえしっかりすれば、あとは「共に楽しむ」というスタンスで臨んだのが良かったようです。それは、まさに私が SFL-J で学んだことでした。お陰様で肩の力が抜け、自然体で障害者の方々とお付き合いができ、この講習会でも楽しむことができました。

追記: 小野陽二先生に引きずり込まれて、日医ジョカーズ連盟というジョギングクラブに入会しました。SFL-J の余波は、まだ続いているようです。「また来年も SFL-J に来い」と脅かされたら、一升ビン付きで参加させてもらいたいと思います。脅迫状お待ちして居ります。

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スキー・フォー・ライト ジャパンに参加して

小泉 周二 (スキーヤー・教員)

48歳で生まれて初めてスキーをやった。若いときはなんとなく自分には遠いスポーツのような気がしてやれなかった。目が不自由になったら、ますますやれなくなった。昨年の1月、たまたまスキーの宿泊学習の下見に行っていた本校の職員が磐梯国民休暇村でスキー・フォー・ライト ジャパンに出くわした。帰って来た職員の話を聞いた私は、それにぜひ参加したいと思った。

目が不自由になってから、私はいろいろなことに挑戦しようという気持ちが強くなった。盲人マラソンも始めた。スキーもやってみよう。早速申込みをした。

初めてのスキーをはいて雪の上に立った時うれしかった。不安感はなかった。ガイドの丸田さんのおかげで少しずつタイミングよく滑れるようになっていった。1日目は雪が少なく、地面が出ているところもあるようだった。

夜、全員でゲームを楽しんだ後、部屋に戻って同室の人達といろいろな話をしながらおいしい地酒を楽しんだ。

2日目は風と雪が強かった。涙と鼻水がいっしょに出てきて顔がぐしょぐしょになって大変だった。なぜかとても疲れてきて滑る意欲がなくなった。それで、午前中は少し早めに切り上げた。午後になって気づいたのだが、午前中不調だったのは疲れではなく二日酔いのせいだった。それが証拠に午後は調子がよくなった。手と足のタイミングが合ってスムーズに滑れていると感じるのは気持ちがいい。スキーを逆ハの字にして丘を登るのも最初は大変だったが、だんだん慣れていった。丘を下るのに直滑降はなんとかできるようになったが、ボーゲンはむずかしく、片方に曲がってしまって雪だまりにつっこんだりした。でも、それもおもしろかった。

2日目の夜の懇親会も楽しかった。3日目は吹雪のため予定していたタイムトライアルができなくて残念だった。でも、そのおかげで私は思いもかけずベストスキーヤー賞というものをいただいてしまった。私はとてもうれしかった。すばらしい体験ができ、たくさんの人達に出会えたこのスキー・フォー・ライト ジャパンに私はまた参加したいと思う。

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SFL-J に参加して

渡辺 菊美 (ガイド・学生)

私は福祉に詳しいわけでなく、今までも視覚障害者の人と接する機会を持ったことが全くありませんでした。ただスキーに行きたいと話をしているうちに、クロスカントリースキーのことを知り、SFL-J の存在を知りました。その話を聞き「ボランティアではないこと」、ただこの一言が、その場で「参加したいなぁ」、そして「参加します」と即答してしまった理由だったと思います。

しかし沢山の資料を読んでくうちに「行けば行ったで何とかなるか…」という気持ちと、「私でもうまくやっていけるかしら?」という不安が入り交じっていきました。知る人は紹介者ただ一人、ほとんど知る人のいない中で日帰りではなく4泊のプログラムであったこと、そして何よりクロスカントリーも初心者の私にガイドができるのか…??

実際プログラムが始まると、そんな不安もふっとぶぐらい楽しめました。また、初めて学ぶ事も沢山ありました。

私達ペアはマイペースというのか、お気楽組… コースやペースは毎日2人で話し合いながら決めることができたので、自然とこうなってしまったのだろうか!? そして初心者ガイドで大丈夫だったのだろうか、今でも不思議ですが、雪不足もなんのその!! 芝だろうが、川越えだろうが、笑いとトークで自然の中を大滑走。ベテランスキーヤーにガイドしてもらったり、足にまめを作ったり、何度も転び、しまいには大転倒してしまった。そんなこともありましたが本当に楽しめました。

また、スキー以外の時間も充実していたと思います。それは食事をしながらだったり、お酒を飲みながら、若い人から年配の人、様々な職業の人達や学生… 沢山の方と話ができましたし、ゲームで笑ったりできてとても刺激的でした。唯一残念だったことは最終日の申告タイムレースが大雪で中止になってしまったこと。

この会を企画し運営してくださったスタッフの方々に、沢山の資料の作成や事務など、様々なことに対して、また、参加者の方々に感謝し、「また次回も参加できたらいいのに…」と思っています。

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何かをつかみ取るために

細川 陽一 (スキーヤー・教員)

"Ski for light"とは「光に向かうスキー」という意味であろうか。はじめ私はこの意図するところが理解できなかった。3日間クロスカントリースキーをして楽しむだけのことではないだろうかと考えて、SFL-Jに安易に参加した。ここで私が体験したことは、でこぼこ漫才、温泉での○○話、夜のムヒヒ宴会、体を密着させてのシーツ乗りゲーム、あっ、それとクロスカントリースキーであった。

この冬は暖冬で雪が少なく、裏磐梯のスキー場は所々地面が見える状態であった。この中を初めて会ったパートナーとスキーをするのである。私はクロカンは初めてだし、ほとんど見えていない。どうやって滑るのだろうと不思議に思っていたが、よくみると雪上に何本かの溝がきってあった。この溝に板を合わせて滑るのである。最初は、文字どおりジャカジャカと歩くので精一杯であった。そのうち、ズリズリと少し滑るような感じになり、さらに頑張るとシュリシュリと、初心者ながら、まあさまにはなるのである。

溝の中を行ったり来たりするばかりではない。溝から外れて、斜面をガキガキと登り、滑り下りたりもする。最初のうち登りは少ししんどい。何メートルか進むと、まるで根性が曲がった奴が後ろから板を引っ張るようにズズッと滑り下りる。むきになってまたガキガキと登る。また根性悪が後ろから引っ張る。この繰り返しである。これを続けていると、やがてこつらしきものがつかめ、最初よりはスムーズに登れるようになる。登り終えるとそれで終わるというわけではない。下りがある。これはガイドが難しい。平地はパートナーに少し前を滑ってもらい、その姿を見てついて行くような感じで滑る。しかし下りは、私自身がスキーコントロールができず、前にいるとぶつかりそうになったり、逆に距離が離れてよく見えなくなる。そのため、下りた所で声を出してもらいそこに向かって下りるようにした。声を出すのが大変そうだったので、パフィーの「それが私の生きる道」を歌ってもらった。しかし、これでもうまくいかない。決してパートナーの歌が悪かったのではない。距離がありすぎて、途中からどの方向に行ったらよいか分からなくなったのだ。試行錯誤を繰り返し、助言などを頂いて結局後ろについてもらい、私が前を滑り、後ろからガイドしてもらうという形におさまった。

初めてのクロカンではあったが、それなりにさまにはなったと思う。3日目はタイムレースがあるという。速さを競うのではなく、申告タイムにどれだけ近いかを競うのである。口では、「初めてだし、自身がないですよ」といいつつ、心のなかでは「フッフッ明日が楽しみさ、みんなをあっと言わせてやる」と熱いものをたぎらせていた。

3日目、みんなはあっと言った。朝起きるとすごい吹雪であった。昨日まで雪が降らず、所々地面が見えていたスキー場であったが、ゴッゴッと横なぐりの雪が吹きつける天候になった。レースは中止となり、私の野望は来年に持ち越された。

こうして振り返ると、私がどれだけクロカンを愛し、熱中したかが分かって頂けると思う。しかし、これは昼の部の話である。夜はもっと楽しい。それは参加した者だけが知っている。ここでは簡単に教えないことにしよう。

"Ski for light"とは、「光を見つけるためのスキー」という意味であることが分かった。障害を持って生まれたとしても、同じ人間として目標をもち、毎日を楽しみたい。他人を羨むのではなく、自分が輝ける瞬間を持ちたい。改めてそう感じさせられた3日間であった。ある人が、「光になるため」と言っていた。私が、不自由を持ちながらもルンルンと毎日を送り、何かを通してパッと輝けるとき、その光や暖かさを一人でも多くの人に伝えたい。

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